中国戦乱の人々の出会い系統一
毛 沢東 part 11 死去
ニクソンとの会見後に毛沢東(英語で Mao Zedong)が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが判明した。
医師団が懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。
A team of doctors treated it strenuously, but chronic bronchitis by long smoking was taking physical strength of Mao away.
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1975年には白内障も悪化し、秋には肺気腫から心臓病を引き起こして深刻な状況となった。
A cataract also was aggravated, caused a heart disease from pulmonary emphysema in autumn and was the serious situation in 1975.
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毛が最高幹部に直接指示を与えることはほとんどなくなり、甥の毛遠新を連絡員として病床から指示を発するのみとなった。
毛沢東(英語で Mao Zedong)の体調悪化と時を同じくして、文化大革命による混乱の収拾と国家行政の再建に尽力していた国務院総理の周恩来も膀胱癌が悪化して病床を離れられなくなった。
毛は周恩来の補佐として、1973年に鄧小平を復活させ、1974年には鄧を国務院常務副総理(第一副首相)に任命した。
さらに、鄧小平は病床の周恩来に代わり、1975年1月より党と国家の日常業務を主宰するようになった。
鄧小平は文革路線からの脱却を図ろうとしたが、文革を推進してきた江青ら四人組は反発し、周恩来・鄧小平批判を繰り返した。
毛沢東の連絡員となった毛遠新は四人組のシンパであり、病床にあった毛沢東に対して鄧小平批判を伝えていた。毛沢東も文革を否定する鄧小平を批判するようになった。1976年1月8日の周恩来死去をきっかけに、同年4月5日、第一次天安門事件が発生すると、毛は鄧小平を再度失脚させた。
周恩来、朱徳(1976年7月6日没)と、「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、1976年9月9日0時10分、北京の中南海にある自宅において、毛沢東は82歳で死去した。
毛沢東(英語で Mao Zedong)の死の直後に腹心の江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。
遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている。
Mao Zedong's corpse is enshrined in the hair chief period sense hall in Tiananmen Square in the Beijing city at present, and permanent preservation is opened to the public.
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